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  • 2019.08.01 マンスリーコラム

    相模原障害者殺傷事件から3年

反差別の思想と歩むということ

 暑い夏がやってきた。神奈川県相模原市でおこった障害者殺傷事件から3年が経った。

私は「チームかなこ」として、北村佳那子さん(心身の重度障害がある、現在31歳)と一緒に活動している。同じ3年前、チームかなこは糸賀一雄記念未来賞を受賞し、壇上にて2人でスピーチをした。かなこさんはしゃべれない。でも、声を出して、表情・全身で何かを伝えていた。講演する時には、私はいつも、かなこさんに呼びかけ、かなこさんを見て話している。この時も、横にいるかなこさんをふと見ると、涙がつ~と流れたのが見えた。私は思わず、「かなこさんが泣いている…」とつぶやいた。かなこさんの喜びの気持ちが会場にいる人たちに伝播したと私は感じた。

この年の秋、「チームかなこ」は関西テレビより長期取材を受けることになった。相模原事件をこのまま風化させたくない、という気骨のあるディレクターからの依頼だった。かなこさんが、地域のグループホームで暮らす姿、講演会等の仕事をしている姿、友達の結婚式に出席するシーン、たくさんの姿がカメラに収められた。植松聖被告へ接見を重ねた神戸記者(RKB毎日放送)が「襲った人をどう選別したのか?」と尋ねると、「起こしました、『おはようございます』と答えられた人は刺していません」と応えたとのこと。植松被告は、この施設で職員として働いた中で、入居者の一人ひとりとやり取りをする暇もなかったのか、やり取りから感じることはなかったのだろうか?かなこさんは「おはようございます」と言葉では返せない。

 

 当センターの「障害児の生活と共育を考える部会」でも、事件を受けて学習会をおこなってきた。2017年8月の学習会では、会員の二見妙子さんに、ご著書『インクルーシブ教育の源流 一九七〇年代の豊中市における原学級保障運動』から報告をしていただいた。私は自分の原点に立ち返ることができた。私は小学校卒業まで豊中市で育ち、まさにこの源流の時代があったからこそ、小学校時代に共生の営みを送ることができた。二見さんは「大阪府豊中市での障害児共生共育の取り組みは、障害児を排除する社会の『差別』の問題として明確に捉えられ、進められたきた」「壁をこわしていくことが必要。思想、条件整備が実践とからみあっていく、この3つの歯車が大事。思想が揺らぐと形だけになる」とおっしゃった。

子ども情報研究センターも、同和保育、障害児保育は、差別の問題だと捉え、反差別の社会をめざして機関誌『はらっぱ』でも常に発信を続けてきた。多くの人は、日本の義務教育はどこの地域でも均等だと思っている。しかし、特に障害のある子どもは、学校・住む地域によって大きな差が生じている。1970年代から50年近く経とうとする今も、全国から信じがたい報告を聞く。地域の普通学校への入学を望んでも断られ続けた、行事には親の付き添いがなければ参加できないなど。子ども本人、家族、学校(現場)と対話するのがいかに難しいかを感じている。でも、そこで難しいで止まってしまっては、子どもに申し訳ない。インクルーシブ教育は、障害のある子どももない子どもも共に学びあうこと。ある集会では、親と学校側が最後まで折り合いがつかず、行事へ出かけるバスが当該の障害のある生徒を乗せずに校庭から出発する映像を見た。この場面に居合わせたバスに乗っている多くの生徒達は何を思っていたのか、ずっと気にかかっている。先に書いたかなこさん、学校時代の友人たちは口を揃えて、「かなこさんとしゃべっている」と言う。言葉では話せていないけれど、感情を交換しあっているという感覚があるのだと、彼らを見ていて思う。相模原事件の植松被告は、この交換ができなかったのだろうか。子ども時代に、障害のある子どもたちと日々育ちあう経験があれば違っていたのだろうか。

 日本は、国連「障害者権利条約」を2014年に批准した。来年初めての国連審査を受ける。障害当事者のスローガン「“Nothing About Us Without Us”(私たちのことを,私たち抜きに決めないで)」にある通り、障害のある子どもたちの声が聴かれ対話しようとする教育施策が進んでいるのだろうか。

 しんどい子どもや排除されている子ども、家庭の傍にいる、その傍に立ち共に立ち向かう人に、子ども情報研究センターで、チームかなこで出会ってきた。そんな先輩たちの姿に私は憧れ尊敬し、自分もそうありたいともがいている。

当センターも、仲間と共に、反差別の思想に常に立ち返り、子どもの声に耳を傾け実践を積み重ねていきたい。

理事 山崎秀子

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